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「不幸のしたたらず」

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Bunkamuraシアターコクーンで野田秀樹の「赤鬼 日本バージョン」をみてきた。
タイトルは作中の数あるズンとくる言葉のうちのひとつ。
青い鳥は、青いって、見るか見ないか。
青くなくたってさあ、そう思えば救われるんならば、そうしたいよね。

野田秀樹の作品のなかでも、この戯曲は、私にとって、格別に、心だけでなく頭に訴えかけてくる。

「赤鬼」に初めて出会ったのは、前回の、タイバージョン日本初上映@シアタートラムでのことだった。
それから6年ぶり(?)くらいの再会。でも、3バージョンすべてとはいかず、今回はロンドン・バージョンと日本バージョンのみでがまん。
今回、コクーンのホールに展示された衣装を見ると、どうやら衣装はずいぶんかわったようだ。赤と白が印象的だった前回とは、違った印象になっていたかもしれない。
今日も幕前にはタイ語の歌もかかっていて、ちょっと、あのタイ語の独特の響きにふれることはできたけど。

でもなにより、自分の第一言語でみると、一番すとんと落ちてくることを実感。
英語でも、朗読のようなイヤホンでの同時通訳は役者の発する言葉の温度を下げてしまうので結局ほとんど使わなかったんだけど、英語はやっぱり私にとって認識のための言語で、感じられる言語ではしょせんないのだ。たぶん、その豊かさの幾分の一くらいしか感じ取れない。
わかることと、感じるってことは、全然別物。

「わかる」の方からきちゃうと「感じる」ことが難しい場合がある。でも、「感じる」と、知識やイメージでしかなかったことが、すとんと、ほんとの意味でわかっちゃうことにつながったりもする。


******以下ネタバレあり******

鬼だって言っちゃえよ。そうしたらおまえは人でいられるんだ。」

人が生きるために食べるもの、それが鬼なのよ。

人は、誰かを見下したり、敵にしたりしないと、落ち着かない生き物なのだろうか?
人の社会は、「よそ者」をつくりだし、異質なものを「鬼」にしてしまわなくては、共同性や秩序を保てないのだろうか?

「鬼」を唯一「人」として受け入れた女は、自らも「鬼」にされてしまう。
E.コノリーがいう「内なる他者」に気づいてしまった宣教師の悲劇のように・・・

居場所がないと感じるとき、きっとここではないどこかに、自分を受け入れてくれる場所があるはずだ、と誰しも願う。
「鬼」としか見てもらえない男は、世界を漂いながら、まだ見ぬ、どこかにあるはずの故郷を探し続ける。
それは本来あるべき場所でないからだ、と絶望を回避し、自らの起源の場こそ、無条件に自分を受け容れてくれてくれるはずだ、と渇望する。
それはしかし、実際のところ、歴史上の故郷である必要はない。たとえば、たった一人の誰かでいい。あたたかな体温を感じあえれば、救いはそこに存在する。

異文化理解や国際理解。学校の授業で何時間も使うより、この芝居をみたらいいと思う。
そこで追体験できる境界が生む痛みへの感性に、不条理さへの認識に、劇場の中だけのことと背を向けてしまうような、訳知り顔の大人になる前に。

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